この動画では、1962年(昭和37年)10月頃の上り急行北斗の盛岡~仙台間をC61がけん引する姿を再現しました。
TOMIXのC61はもともとは良い走りをする個体だったのですが、久しぶりに撮影前に試運転したところ、ギクシャクした走りでした。やはり動輪のトラクションタイヤが劣化していました。ゴム製なので走らせなくても経年で劣化してしまうところが難点です。TOMIXの蒸気機関車は第二動輪と第三動輪にトラクションタイヤが巻かれています。そこで緊急に第三動輪のトラクションタイヤのみ交換して撮影しました。両方取り替えた方が滑らかに走るのでしょうが、久々のSLのトラクションタイヤ交換でロッドのピン(極小)を外すのが怖かったので第二動輪はそのままにしました。
客車の編成は上野より前から、()内は当鉄道では他の車両で代用 ①マニ60、②オロネ10、③オロネ10、④オシ16、⑤ナハネ11、⑥ナハネ10(ナハネ11)、⑦ナハネ10(ナハネ11)、⑧ナハネ10(ナハネ11)、⑨オハネ17(ナハネ11)、⑩オハネ17(欠車)、⑪スハ43、⑫スハフ42でした。
かつての東北本線は、青函連絡船・稚泊連絡船を挟み本州⇔北海道・樺太連絡の使命を担っており、その重要性から急行列車や準急列車などは、増発と到達時分の短縮が繰り返されてきました。
上野 - 仙台間には2種類のルートがありました。一つは東北本線経由とするもので、もう一つは常磐線経由とするものです。東北本線は宇都宮市・福島市など重要な県庁所在地や商都として発展した福島県の主要都市である郡山市を通過するものの、急勾配区間が多数存在し、蒸気機関車牽引列車にとっては速度や輸送力(連結両数)の面で不利でした。そのため距離はやや遠回りになるものの、勾配が緩やかな常磐線経由の列車も多く設定されていました。
以下に急行北斗に関連する1960年代までの東北本線(上野~青森間)の優等列車の略史を紹介します。
1891年(明治24年)9月1日 日本鉄道が東北本線上野 - 青森間約740kmを全通させました。直通列車1往復が所要時間26時間半で運行を開始しました。
1906年(明治39年)4月 上野 - 青森間に同線初の急行801・802列車を海岸線(現・常磐線)経由で設定しました。下りは上野発11時45分で青森着が翌朝7時、上りは青森発19時40分で上野着が翌日15時13分でした。
1906年(明治39年)11月 日本鉄道が鉄道国有法によって国有化されました。
1908年(明治41年)5月 1等・2等・食堂車・寝台車を連結した上野 - 青森間東北本線経由急行201・202列車が新設され、上野 - 青森間急行は海岸線経由の801・802列車と合わせて2往復となりました。青森では青森 - 函館航路(所要時間4時間)および青森 - 室蘭航路(所要時間12時間)の連絡船と接続していました。
1926年(大正15年)8月 ダイヤ改正では、列車番号の再編により東北本線は100番台、常磐線を200番台としたことから201・202列車を103・104列車に、801・802列車を201・202列車にそれぞれ変更しました。同時に103・104列車は1等寝台車の連結を廃止、食堂車を洋食堂車から和食堂車に変更しました。
1944年(昭和19年)4月 戦局悪化に伴い全国的に特急・1等客車・食堂車・寝台車が廃止となり、同年12月 急行203・204列車が運休となりました。
1947年(昭和22年)6月常磐線経由の 急行207・208列車が運転開始。
1948年(昭和23年)7月1日 ダイヤ改正。上野 - 青森間直通急行は常磐線経由の201・202列車が復活し、12月には201・202列車に特別寝台車(後の1等寝台車)を連結。
1949年(昭和24年)9月 急行201・202列車を運休。代替として101・102・203・204列車が運転再開。203・204列車は1等寝台車(現・A寝台)を1両連結。
1950年(昭和25年)10月 日本人用列車で201・202列車が運行再開。11月には201・202列車が「みちのく」、203・204列車が「北斗」の東北本線・常磐線の日本人用列車では初の列車愛称が命名されるとともに、「みちのく」では1等寝台に限り函館 - 札幌間急行1・2列車からの青函連絡船客車航送連絡を開始。
1958年(昭和33年)10月1日 ダイヤ改正により上野 - 青森間常磐線経由で国鉄東京以北で初の特急列車となる「はつかり」(1・2列車)を新設。これにより「みちのく」の盛岡以北が不定期列車に格下げされました。
1959年(昭和34年)9月22日 「北斗」を寝台車中心にした寝台列車化の編成変更を行い、「十和田」は座席車主体の組成に変更。
1960年(昭和35年)12月10日 「はつかり」使用車両を新開発のキハ81系気動車に置換え。日本初の気動車特急列車となりました。
当初は習熟運転と称し客車時代のダイヤで運転されましたが、十分な試験走行を行わずに運転を開始したため初期故障が続発。新聞には「はつかりがっかり事故ばっかり」などと書き立てられました。
1961年(昭和36年)3月1日 「はつかり」は所要時間を10時間45分に短縮、「みちのく」の盛岡以北不定期区間を再定期化。
同年10月1日 ダイヤ改正により「はつかり」所要時間を10時間25分に短縮。
1964年(昭和39年)10月1日 ダイヤ改正を実施。「北上」を格上げする形で東北本線初の寝台特急「はくつる」(3・4列車)が20系客車で運転開始。「北上」の常磐線経由を東北本線経由に変更。
1965年(昭和40年)10月1日 ダイヤ改正に伴い、青函連絡船就役船の津軽丸型置換えに伴い運航時間を4時間30分から3時間50分に短縮。
「はくつる」は尾久客車区移管と12両編成に増強し、一ノ関が通過となる。共通運用として「北斗」を格上げする形で常磐線経由寝台特急「ゆうづる」(5・6列車)の運転が開始されました。
「北斗」の愛称は、1965年(昭和40年)11月1日に函館 - 旭川間を函館本線・室蘭本線・千歳線経由(東室蘭駅・苫小牧駅経由)で運行開始した特急列車につけられ、現在に至っています。