福島市で薬剤師をしていた藤田亜希子さん(1973年生まれ)のお話の後編です。
藤田さんが山形市への避難移住を決め、13年が経ちました。
当時3歳と6歳だったお嬢さんは、長女が神奈川県で大学生活を始め、次女は山形市の高校でファッションデザイナーを目指しています。
放射線感受性の高い年齢である二人の子供の健康に万一のことがあってはならない、と山形市への避難移住を決めた藤田さんは、お二人がほぼ成人したいまなにを考えるのでしょう。
13年が経ち、福島市の周囲の人々は原発事故や放射能汚染のことを話題にすらしません。
たまに、山で採れた山菜やきのこのおすそ分けがあると「私はいらない」「私はいります」と反応が分かれる。しかしその理由を話題にすることはありません。「沈黙の了解」のようなものが人々の間にできました。
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<前編>
2011年3月11日、東日本大震災に襲われて2日間、停電でテレビも見ることができなくなった福島県福島市内では、東北の沿岸部が津波で壊滅していることも知らないままになりました。まして福島第一原発が危機的な状態にあることなど知らされません。
同13日になって、太平洋沿岸部から避難してきた人たちの口コミで「原発が爆発した」ことを聞きます。しかしその時の藤田さんは原発の位置すらわからなかった。
福島市の保健所が計測した空間線量をネットで調べると、同年3月15日には原発事故前の600倍という猛烈な線量だったことがわかりました。自分で計算してみると、年1mSVの基準をはるかに超えていることがわかった。
4月になって政府が一般公衆の被ばく許容基準を年1mSVから20mSVに引き上げたことを知って、藤田さんは愕然とします。
被ばく基準を超える放射性物質が来たのなら、避難を命じるのが合理ではないのか?しかし政府はその代わりに基準を引き上げた。それはまるで「39度以下の発熱はインフルエンザ(コロナでもいいのですが、当時はコロナは流行前だった)感染ではない」と政府が基準をいじるような、奇怪極まる話に思えました。
家族の健康に万一のことがあってはならない。藤田さんは新築したばかりの自宅を出て、山形県に避難することを決意します。
しかし、周囲はそうした藤田さんの懸念を理解してくれる人がほとんどいなかった。むしろ避難した人の悪口や陰口がささやかれていた。
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